マニュアルを書かない職人と、製造業のDX ── 浜松・注染工場で考えたこと
先週、ぼくは台北のCOMPUTEXの会場で「エッジAI」やら「フィジカルAI」やらと、最先端の技術に触れていました。その一週間後、今度は浜松の染工場で明治時代からの手仕事を眺めている──。 この振れ幅の中にこそ、ぼくの居場所があると思っています。
妻が通う着付け教室「ななほう」を主宰する刑部優美帆さんが「大人の社会科見学」と称して、注染(ちゅうせん)工場の見学会を企画してくれました。なんとなしについて行ったのですが──。 いま感じているのは、「すごい」「おもしろい」などという昂揚感とは違う、もっと座りの悪い「問い」を渡されたような、複雑な感情です。
注染という仕事
案内してくださったのは、白井商事株式会社の専務・白井成治さん。反物の商社として図案を起こし、型紙を発注し、染工場に依頼して製品を世に出す。つまり、染めの段取り全体を預かる立場の方です。
曳馬染工場さんで、以下の工程を見学させていただきました。職人を表す独特の呼称もおもしろい。
- 糊置き・板場さん 型紙を当て、染めない部分に防染糊を置く
- 土手づくり・紺屋さん 色が混ざらないよう、糊で土手を作る
- 注染・紺屋さん 土手の中に、上から染料を「注ぐ」。下から空気を吸って真空状態を作り、強制的に糸の裏まで一気に染料を通す
- 洗い・天日干し 余分な糊を洗い、屋根付きの建屋で乾かす
そもそも染料を「注ぐ」ことから「注染(ちゅうせん)」と言います。板場(いたば)や、紺屋(こうや)という独特の呼称も面白い。出来上がった生地に表ウラはありません。表から見ても裏から見ても、同じ柄が同じ発色で現れる。糸そのものを染め抜いているからです。
ちなみに、ぼくは10数年前まで、染織工場でインクジェットプリンターを使ったデジタルプリントを担当していました。インクヘッドが往復し、生地の表面に染料を吹き付ける技術です。染料はそのあと「蒸し」工程を経て発色し、生地に色が定着します。
翻って注染は、糊を引いた生地に染料を注ぐことで生地が染まり、洗って糊を落とす過程で蒸すことなく発色し、ウラにまで色が抜ける。 「手ぬぐい」と「プリントの反物」を比較すると、デジタルプリントとはまったく別物であることが分かります。
配合は職人が経験で決める
糊置き工程では、そもそもの糊(のり)の話になりました。硬さは、柄の細かさやその日の天気で変わる。おおよその配合は前の日に決めておいて、当日の条件を踏まえて微調整するそうです。調合は職人さんの頭の中にあって、紙には残っていません。
「マニュアルはあるのですか?」と質問が飛びました。白井さんは少し考えてから「……マニュアルがないとできません、という方には、難しい仕事かもしれませんね」 責めるわけではなく、かといって誇るでもない、ただ事実を淡々となぞるような口ぶりでした。「口伝ということですね」と返すと「そうですね」と、静かにうなずいた。
一方、デジタル・トランスフォーメーション(DX)に携わるぼくの仕事は、その反対にあります。一人ひとりの頭の中にしかない判断を言葉にし、勘どころに「基準」や「しきい値」を与え、フィルターで濾(こ)して「定量化」する。「なんとなくやっていた」ことを「この場合はこう判断する」に、ひとつずつ翻訳していく仕事です。製造業のDXとは、煎じ詰めればそういう作業です。
眼の前で桶の糊をすくい、版の上できりりと引く。レバーを操作して染料をシュパッと吸い込む。板場さん、紺屋さんの仕事を見ているうちに、特に理由もなく、ぼくはすこしずつ、憂鬱な気分になってきました。── 何というか、彼らの迷いのなさが、ぼくの胸をつねるのです。職人の手仕事を前に「暗黙知を形式知に」というスローガンは、ただのおせっかいに聞こえてしまう。
彼らが配合を紙に残さないのは、決して「残せないから」ではない。言葉にして、マニュアルになった瞬間、雑多さが消え、手順がかしこまり、そこが解釈のズレとなる。マニュアルはそもそも、そのズレを認めませんが、職人の世界においては「守破離(しゅはり)」という口伝のサイクルが巡り、技術は伝承されてきたのです。職人さんは、紙や言葉を介さず、身体から身体へ直(じか)に技術を渡す。
よく職人の世界で聞かれる「見て盗め」とは、そういうことです。どこかに「言葉では渡りきらない」という、ほのかな諦め(あきらめ)が刻まれている。
八十年後の職人と話す
ところで数年前、ぼくは地元の祭りで、昭和十二年に建造された屋台の大改修に関わりました。そのとき聞いた、宮大工の新川さんと彫師の宮崎さんの会話が、頭から離れません。
彫り物や骨組みを修繕するのは、当時それを造った職人と会話をしているような気がする、と言うのです。なぜこの部分にこの木を使ったのか。木の節をどう避け、なぜこの形を選んだのか ── 手を入れるうちに何世代も前の職人の判断が、手に取るように分かる瞬間があるのだそうです。
ノウハウが記録として残っている訳ではない。それでもなお、彫り物そのものが八十年の時を越えて、次の職人に語りかけてくる。このように成果物そのものを介して、職人同士にしか交わせないテレパシーのような力で、時空を越えて技術を継承していく方法もあるのです。
その話を思い出しながら、職人への畏敬と、自分もそうありたい、という気持ちを強くしました。注染の現場で感じた「憂鬱」には、おそらくぼくのこの「渇望」も織り込まれている、と感じました。
浜松注染は、二つの土地が出会って生まれた
帰りの車で白井さんが、浜松注染の成り立ちを話してくれました。
元になったのは、明治のころ関西の方から流れてきた「長板染め(長板中形)」という技法です。そこにもう一つ、重要な出来事が重なります ── 関東大震災です。職を失った東京の染め職人が浜松へと移り住み、関西由来の技術と関東の職人の手が浜松の地で出会った。いわば、二つのルーツが混ざりあって生まれたのが「浜松注染」なのだ、と教えてくれました。
聞きながら、先ほど曳馬染工場で、紺屋(こうや)の一瀬さんを思い出しました。彼は元々東京の染工場にいて、工場が廃業したため、浜松に渡って来たそうです。百年前、東京から人が流れてきて浜松の染めが生まれた── 。今また、東京から流れてきた職人が浜松注染を引き継いでいる── 。同じことが、百年を挟んで目の前で繰り返されている。浜松という土地は、行き場を失った職人を引き寄せずにいられないのかもしれない。
名乗りを上げる人たち
現在、注染の三大産地は、大阪・東京・浜松。ただし浜松は、長らく「作る側」でした。東京や大阪で企画された商品を、技術のある浜松が引き受けて染める。仕事は向こうから来るから、自分から名乗りを上げる必要があまりなかった。腕がいいから、黙っていても食えた。黙っていても食えたから、外部に発信する習慣が育たなかった。
繊維のまちで長く働いてきた人間として、この話は他人事ではありません。大企業が多いこの地域ではサラリーマンが多く、自分から努めて動く必要がない、というのは、この土地で多くの人が持つ、ごく当たり前の感覚だからです。
その「浜松注染」産地で、自分の名前を使って発信している人たちがいます。
森本さんと一瀬さんは、見学させてもらった曳馬染工場の職人さん。加えて、加藤さんは白井さんの話のなかで名前が挙がった方です。それぞれに特徴的な職人である三人は、「手ぬぐい三人衆」と称して本田宗一郎ものづくり伝承館や、地域のイベントで、手ぬぐいを販売しているそうです。
彼らのように、仕事に自覚的な職人が「腕がいい」のは、職人の世界では当然のこととして扱われます。問題はいつも「報われにくい側」に職人は置かれてしまう、ということです。特に今の時代、表舞台に上がるのは、企画した人やデザインを手掛けた人、売っている人になりがちです。染めた人が表に出ることは、まずない。今、その立ち位置をなんとか置き換えようと頑張っている人がいる。ぼくは、彼らのサイトをしばらくじっと眺めていました。
単に彼らがすごい、という文脈ではありません ──。 ただぼくは、彼らのことを、今日の気持ちのまま覚えていたかった。
仕事の変革
ここに来るまで、ぼくの仕事は、職人さんたちの技術や勘どころを、デジタルの力で次の段階に導くことだと思っていました。
しかし観察を重ねると、職人さん自身は必ずしも自分の技術を「残すこと」が大切だとは思っていない節がある。残すことより、目の前の仕事を終えることの方が、ずっと切実だったりする。本人たちは、残らないことを少しも不幸だと思っていない。
そこへぼくの「構造化したい」「残したい」という気持ちを、どこまで持ち込んでいいのか。これは、他の業界の職人を見ていても、職人時代の自分を顧みても、感じることです。
諦めずに「残す視点」を持ってほしい ── そう言いかけて、ぼくはいつも口ごもってしまう。それは、こちら側のものさしであって、彼らが選んできた口伝という構えを、門外漢が書き換えようとしていることにもなるからです。
新川さんと宮崎さんの言うように、優れた仕事は「もの」を介して、自然と後世へ残っていく。昔気質の職人が、今でも大切にしている美意識です。
対して、三人衆が屋号を掲げて自分から名乗りを上げたのは、その「自然と残る」のを待たずに、自分の手で未来へ手渡しにいくということ。これは職人世界における、**新たなトランスフォーメーション(変革)**なのではないでしょうか。
変革の形は当事者が決めたらいい。だとしたら、構造化や言語化は、外から押し付ける一方的な善意ではなく、彼ら自身が動き出した先で、たまたまその隣を歩いている── 。ぼくが言えるのは、そこまでなのでしょう。
エピローグ ── 白井商事さんで
工場を出て白井商事さんに戻り、2階でたくさんの反物を見せていただきました。雑談のなかで、思いがけない縁(えん)がほどけます。白井さん、昔はヤマハ発動機にお勤めだったとのことで、レースのメカニックとして各地を転戦していた時期があり、その上司が「細矢さん」だった、と。── ぼくがよく知る近所の「細矢さん」です。さらに細矢さんは、ぼくの地元の祭り、府八幡宮例大祭におけるお囃子の要(かなめ)なのです。 若いころはメカニックとして全国を転戦していたのに、祭りを大切にしたい一心でその道を手放し、現在は子どもたちにお囃子を伝えている。
磐田や浜松といった遠州地方は、ものづくりと祭りと技術(メカニック)とで、地下水脈のように繋がっているのを感じた瞬間でした。
続いて、白井さんの話がいちばん熱を帯びたのは、浜松学芸高校で授業を受け持っている話でした。探究創造科地域創造コースの生徒たちが自分で浴衣の柄を考え、配色まで指定する。決まった図案は白井さんと職人さんが注染染めとして世に出す ── 。生徒さんが着てカタログにする。白井商事さんに掲げてあったポスターは、真冬の1月に撮影したそうです ── そう話す白井さんの表情は、今日いちばん緩んでいました。「ゆかたアイドル」なんて企画もあって ──、と白井さんは笑います(はままつ胸キュンプロジェクト)。
浜松学芸高校とのお付き合いは、十年以上続いているそうです。
白井さんが反物を広げると、見学会の参加者から驚き声が上がりました。きれい、すてき、すごい !!場の空気が一段と明るくなる。
でもぼくはその輪のうしろで、さっき出会った職人さんのことを思い返していました。……職人たち、白井さん、細矢さん、そして、たぶんぼくも──、立っている場所や見えている景色は、案外近いのかもしれない。 そう思えたから、ぼくは明日も、前を向いて進める気がする。
「職人の技術をデータ化しましょう」── いつもお客様に言っているぼくの言葉です。
……いや、そうじゃない。技術が人から人へ受け渡される、その豊かな曖昧さを理解したうえで、それでもその仕事の本質を残す仕事をしたい。なぜなら、人に埋もれて消えてしまった構造は、取り戻せないからだ。
**DXの目的は、効率化ではない。**誰かの頭の中の、寸分たがわぬ複製でもない。 あの「守破離」のように、受け渡しのたびに生じる解釈のズレごと引き受けて、ものごとを前へ進めていくことだ。浜松で注染の職人たちが、半歩前へ出て自分の名前で仕事をはじめた今なら、ぼくにできることがあるかもしれない ── 。
「暗黙知を形式知に」「定性的な事柄を定量的な基準を与え、構造化しましょう」……このスローガンに引っかかりを抱えたまま、実は本質的な問いに対する答えはまだ出ていません。
それでも希望がひとかけら残っている ── 、そんな大人の社会見学でした。
企画してくださった着付け教室ななほうのゆみほさん、案内してくださった白井商事の白井さん、曳馬染工場のみなさんに、あらためて感謝いたします。
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